子供の欲求を理解できるのは親しかいません

 乳幼児に対しては、親からの語りかけが大事である、と書き続けています。この時期に形成される子供の資質に関わる問題だと思っているので力説しています。

 語りかけの次に必要なのは、親子の接触ではないかと思っています。おんぶにしろ抱っこにしろ、親と接触し、会話が行われることで乳幼児は安心し、自分の居場所を自然に確認しています。

 さらに精神的な安定は、外界に対する興味を喚起し、大脳の発達を促すのかなと・・・・。これはあくまで私の考えですが、外からの刺激を受け入れるだけでなく、自分から興味関心を持って動き回るようになるためには、保護者の監視下にあり、親と何らかのコミュニケーションが成立しているという安心感に寄るところが大きいのではないかと思っています。

 回りくどい言い方ですね。要するに親が愛情を持って接すれば、子供は自然に自発的に育っていくのでないかという楽観的な観測です。(当たり前だと言われそうですが) 

 そのために親はどうするのか?愛情を持ってといっても、一方的に可愛がるのではなく、目の前の子供が何を考え、何を欲しがっているのかを理解しようとする努力が必要なのではと思っています。

 目の前にいる子供が何を求めているのかを察知する能力があると、子育ては楽だと思います。泣いている子供を見て、おなかがすいたのか、おしめを替えて欲しいのか、ミルクが飲みたいのか、単にむずがっているだけなのか、それが分かればすぐに対応できます。

 分かるか分からないかの違いは、親の気持ちが大きいと思います。つまり分かろうと努力するか、面倒だからいいや、と思うかどうかです。(親だって忙しいし遊びたいときもありますから、四六時中なんてとても無理ですけど)

 赤ちゃんの育児の心得みたいな事を書いていますが、このような乳幼児期の積み重ねが、幼児期から小学校辺りには、しつけや学習という行動に代わっていくのではないかと思っているからです。

 なんでもかんでも一方的に要求する乳児期は、ともかくその欲求を察知するのが大前提ですが、幼児期は欲求を察知しつつ、欲求が正統なものかどうかを親が判断し、教えていくという作業が必要になり、これが躾になります。

 つまり、大多数の親が自然にやっていますが、道路は右側通行、信号をよく見て渡るなどです。これを子供任せの判断にしてしまい、その行為を親が認めてしまうと、学校に入学したとき他の子供達と生活感が全く違ってしまうことになります。

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